ウルトラマンに参加して writen by M.Kobayashi H22.12.10
1893年のアイアンマンブームに、更に長い距離を走ってみよう!と生まれたウルトラマンは、Swim10q・Bike421q・Run84qを、3日間かけて制限時間36時間(日々の制限時間が12時間内)で行われる競技です。1qも走れなかった私が、30歳目前にトライアスロンを始めた時、たまたま雑誌でこのウルトラマンの事を知り、以来、私は何年後かにきっと出るんだと決めていました。その夢が叶うと想像しただけで、準備段階も楽しさいっぱいでした。それは、私だけでなく、私のサポートを引き受けてくれた妹と2人の友達もそうでした。そう、このウルトラマンは、選手1人では決して完走出来ない、サポートクルー含めたチームでの競技なのです。
レース1日目、スタートは過去6回参戦しているアイアンマンハワイと同じカイルアピア。朝6:30に、皆のカウントダウンの声で、40名の選手が泳ぎ出しました。各スイムエスコートのカヌーが、まだ薄暗い中、自分の選手を捜して向かって行きます。私は、捜せずにいたスイムエスコートの名を叫んで無事合流し、星空の様な海を泳ぎ続けました。どちらを向いても誰一人見えず、夢の中の様でした。あっという間にケアホウビーチのホテルが見え、残り2qかという所で、波が立ってきて全く進まなくなりました。それでも、私の上陸を待っているクルー3人の事を思うと力が湧いてきて、ヘッドアップを繰り返しながら、10qを3:12:45で泳ぎ切り、トランジットへ突入しました。ここで、案の定、ウェットスーツの左腕部分は千切れ取れましたが、気にせずバイクへ跨り、バイク145qの始まりです。最初からひたすら上る10q位の間に2人の選手をパスし、左ハムストリングスが攣るのを騙し騙し進むと、漸く身体が落ち着き、気持ちの良いライドが暫く続きました。各チームのクルーの車が、サポートを繰り返しながら、選手と抜きつ抜かれつを何百回と繰り返して行くのです。私はと言えばハワイ島まるごとを使って遊んでいるんだという贅沢、この素晴らしい自然全て私の物!と勘違いする様な状況にどっぷり浸かり、極楽気分で進んでいき、あっという間に残り20qとなりました。でも、ここからが少しキツかったのです。ボルケーノへ続く上りは、傾斜はそれ程急でなくても強い向かい風で全く前に進まなくなっていました。(私、大自然にもてあそばれているんだと、今度は苦笑しつつ、3人のクルーの元気な声に励まされながら、6:26:19でフィニッシュ出来ました。途中、少し迷う道もありながらも、私達の日の丸国旗レッドバンの4人チームは、笑顔で1日を終えました。が、クルーは、夜遅くまで、翌日の氷やドリンクの準備とコース下調べをしてくれました。
2日目、朝6:30に、今度はボルケーノから30q以上集団でずっと下りっ放しです。それなのに、私は後方からスタートしてしまった為、遅い選手に先に行く様に進められた時には、先頭集団から離れていました。しかし、追いつこうと、必死に踏み続けました。昨日、似た位置にいた選手を確認出来、下りが終わった辺りから広い道で各自のクルーの車も合流し始めました。ウルトラマン6回優勝している女子選手のクルーの車とも何度か一緒になったので、まだそれ程離れていないのではと思いました。ここの道はかなりガラス破片が多く、危ないと感じ始めたレッドロードへ向かう上り途中の60q付近、リアタイヤがパンクしてしまいました。何で私が!と、悔しい気持ちを抑えながら、上ってきた道を下り戻り、マーシャルの車みてもらっても、チューブ交換は思いのほか困難で、結局メカニックの車を待ち、直してもらいました。事情が分からず遅過ぎると待っていた私のクルー達に、いつも応援してくれていた別のクルー車が知らせてくれたそうで、我らがレッドバンも戻って来ました。もう、20人以上の選手に抜かれていましたが、またバイクに跨ると、こうなったら思いっきり楽しんでやる!(それまでも充分楽しんでいましたが)と気持ちを切りかえました。そこからは、200kmまで15人(数えた)抜きし、もう76qしか無いのかとバイクが終わる事を少し寂しく感じていました。途中、日本人女性の「日本人、頑張ってっ!おにぎりあるからねぇー」の声援に大きく返事をし、今度はワイメア辺りからの複雑なコースで、2人乗りしたオートバイに誘導してもらい、アイアンマンバイク折り返しでお馴染みのハヴィまで最後の上り10qを思ったより楽に終えると、最後お楽しみのダウンヒル30qです。自分が鳥になって空を飛んでいるみたいでした。いつまでもこの道が続いていればいいのにと考えてしまいました。パンクやコースミスで40分ロスしながら、9:36:07でバイク276qを終えたところには、途中に応援してくださった日本人の皆さんが駆けつけてくれていました。皆、十年以上前からウルトラマンに携わってきた方々で、久し振りの日本人参加を喜んで、おにぎりや漬け物や番茶を差し入れてくださったのです。そして、この方達は最終的に、私達が帰るまで毎日同じクルーの一員の様に家族の様に顔を出してくれる事になるのです。オートバイの日本人女性の旦那様は、今もウルトラマンのバイクコースレコードを持つチャンピオンに3回輝いた方で、アワードの時フィニッシャーに贈られる名前・記録入りのコアの木の盾を作っている方だという事を、フィニッシュ後に知るのです。
3日目は、気持ちがゆっくりして更に遊び感覚が増していました。朝から(前日夜から)うきうきしていました。初めて走る84qマラソンで、どんなドラマが待ち受けているか想像もつかなかったからです。私のクルー3人も連日早朝3時起きで睡眠時間も確保出来ず、相当疲労が溜まっていたと思います。だからこそ、私だけでも、元気元気をアピールしていました。6:00スタートでまだ暗く暑くならないうちになるべく前に進もう、というよりは、脚が動くうち進んどけという感じでした。仲間になった選手を抜かれる時抜く時、お互い手を差しのべて、ギュッと握手を交わすだけで、言葉無くして色んな想いが伝わってきました。何処までもつか、でも60qまではこのまま何処までも走れそうでした。バイクの時より、他の選手のクルー達の声援がもらえて、とても幸せな時間でした。でも、私の場合、前日のバイクでパンクした事により、15人を抜き去る間で15チームの顔が見れて覚えてもらえた(これを、アワードのスピーチで話して笑われました)ので、幸か不幸か、顔見知りが多くなっていました。左脚股関節の痛みが治まらなくなってきていた65q付近、全米ナンバーワンでアイアンマンハワイでも準優勝など常に上位のクリス リエト親子が私の伴走をしてくれました。こんな贅沢もウルトラマンならではです。その後も、ウルトラマンに憧れているという地元のランナーが伴走についてくれたので、脚の痛みを忘れて、8:52:26で、コナのオールドエアポートに辿り着く事が出来たのです。フィニッシュ後は、不思議と言葉が通じないどの国の人達とも、会話が弾んでいました。見渡す限り、速い選手も遅い選手も、クルーもスタッフも皆が笑顔でした。皆の顔が、誇りに満ちていました。
他のトライアスロンと大きく違うのは、決して選手1人の手柄では無く、クルー達も一緒の手柄である事です。だから、クルー達の顔は疲労を忘れて、皆、満足気で輝いて見えました。前日のサポート中、路肩に乗り上げ過ぎ、我らがレッドバンはパンクマークが点滅しっ放しでした。それなのに、全てのレース終了までもちこたえ、競技が終わった翌朝、バンのタイヤはしっかり潰れ切っていました。これも軌跡です。フィニッシュ場所であるオールドエアポートは、パワースポットなのだそうですが、その場所で私達のレッドバンの写真を撮ってくれたカメラマンが、3枚撮った画像全てにオーブが多数映り込んでいたのを、「あなた達は、何かに守られていたのね」と言っていました。彼女のカメラにオーブが映るのは珍しく、7、8年前に京都のお寺を撮影した時以来だそうです。
フィニッシュ後、ホテルへ戻る道中、私とクルー3人「3日間、宇宙にいた様」「こんな素晴らしい世界を見れて幸せ」「ここの人々との出会いは私の人生の宝物」と、感動を口で言い表わそうとしても全部伝え切れない感じでした。「さぁ、ここから2日前にスタートしたんだよ、ただいま〜」の私の声に、クルーは涙が止まらなくなっていました。ホテルまで30分色んな思い出を巡らせてずっと泣いていました。人生で、この大会を知らない人は不幸でかわいそうだとさえ思えてきました。
今年、日本人女子の出場は8年振りという事で、私は本当にラッキーでした。スタッフやハワイの皆が、「日本人の女子では、これまでたった1人しか時間内に完走していたかったのに、6時間早く帰って来たね」と、昔の話を交えて教えてくれました。アワードでも紹介してくれました。IRONMAN21戦(海外16戦)やっていても、こんなに温かい気持ちになった大会は初めてです。トータルタイム28:07:37の間、幸せでした。こんな世界がある事を知れて、最高です。更に、天候も、本来なら雨になる確率がとても高い大会なのだそうですが、3日間共、晴天に恵まれて、選手にとってもクルーにとっても絶好の舞台となった訳です。
一皮剥けたい人にはおすすめの大会です。そして、レース最中には、「これが最後、2度とクルーはやらない」と何度も漏らしていたクルー達は、レース翌日には、「次のウルトラマンでは、もっとレベルアップしたサポートが出来る!」と確信しているのでした。 小林 恵